ストーリーセラー2 感想2 伊坂幸太郎 「合コンの話」


2作目は伊坂幸太郎
図らずも連続でコータロー。
この作品は100枚程度。
これと、この次に載っている近藤史恵の作品を読んで、思ったことがありまして。
ミステリ仕立ての小説なんかをよく読む人には何を今更、といったところなのでしょうが、
短い小説だと、登場する要素は少なく、「犯人」のようなものが、
その中のどれかになってしまうため、容易に想像がついてしまうという弱点がある。
この作品も伊坂作品らしいラストが用意されているのだが、
短いことで、その作品世界に長時間浸ったという実績が読者にないのと、
先ほど上げた短編ミステリの弱点によって、
カタルシスのようなものを得られるとはちょっと思えない。


さらにもうひとつこの作品には問題があって、
先ほどの短編小説の問題点、
登場したものから「犯人」は選ばれなければならない、
の逆に、登場した謎が未解決になっている。
つまりこの小説内に謎は2つ存在し、
両方のための要素がばら撒かれているにも関わらず、
解決されるのは片側のみで、
もう一方は完全に放置されたままなのだ。
これによって小説は、
無駄な構成が無い、といった美点を得ることにも失敗しており、
どうしても中途半端な印象を拭えない。


このようなことになってしまっている要因は、
このアンソロジーがストーリーセラー「2」であることにあり、
「1」の方に寄稿した小説が、おそらく、もうひとつの謎について描いたものになっている。
しかし、それは言い訳にしかならず、独立した一篇の小説としての評価は落ちてしまう。
これは小説に限らず、ありとあらゆるエンターテインメント作品に言えることで、
「あれをやってれば(観てれば・読んでれば)面白い」という風になってしまっている時点で、
その作品はその長さでは足りていない、つまり、
たった100枚でこんなに書けているなんてすごい!
たった2時間の映画でこんなに感動できるなんて!
といった評価軸から外れ落ちてしまう。
他の成功した作品からの移民的な評価に頼っている、
そういった意味でも「商業的」な小説になっており、
文芸作品、僕が言う、狭義の「小説」とは違うものになってしまう。


この作品にはもうひとつ、語らなければならない要素がある。
文体。
レーモン・クノーの「文体練習」を意識した、
というにはあまりにお粗末だが(とはいえ「文体練習」は口に出すか否かはともかく、常に意識されるべき作品だろう)、
各章でそれぞれ、一人称人物や、文体が違う。
こういう風な作品は作家が次のステップに進むためには不可欠といっても過言では無いものであり、
この作品がその役割の一端を担ったに過ぎないのだが、
残念ながらそういった作品が高い評価を受けることは難しい。
さらに、特にミステリ系の作品だと、意図的に、犯人特定に関する話題を避けるためや、
自分の筆力では一本調子な文体では書ききれない、裏側を描いたような伏線を、
無理矢理描くための道具と見られかねない。
個人的には一読したところ、高い効果を上げているとは感じられなかったが、
文体の問題は非常に難しく、これ以上語るには精読する必要があるだろう。
しかし、小説の長短の差はあれ、少なくとも、初期作品「ラッシュライフ」において達成した多人数主人公を、超えられているようには思えない。